【たねつみの歌】クリア後の感想。母娘三代が織りなす命の物語

たねつみの歌 感想 アイキャッチ

ノベルゲーム『たねつみの歌』の感想。

遊んだ理由は、最近Steam Deckを買ったので、機械に慣れるために操作が簡単なゲームをやろうと思ったこと。

あと、シナリオ担当のKazukiさんのnote(たねつみの歌)を読んで、ずっと死について考えてきた人の書いた作品ってどんなものだろうと気になったから。

ノベルゲームなのでテキストを読む&聞くだけのワンボタン操作でゲーム性はなかったものの、ストーリーもキャラクターも設定も丁寧につくられていてとても楽しめた。

物語を見届けたあと、命や人生についてふんわり考えたくなるゲームです。

ひととおりプレイして、印象に残ったことや思ったことを書いてみた。

家族、世代、生と死のストーリー

『たねつみの歌』は、時を超えて集まった16歳の母娘3世代が神々の国で旅をする物語。

母娘3世代とは、主人公のみすず、みすずが幼い頃に亡くなった母親の陽子、そしてみすずの未来の娘であるツムギを指す。

世代も価値観も違う、でも血のつながりがある3人が、異世界で協力したり衝突しながら「たねつみの儀式」を果たしていく。

たねつみの歌 感想画像

ほんわかしたイラストで、3人の少女が世代間ギャップでほほえましいやりとりを繰り広げて楽しく冒険する……

というシーンもあるが、この作品は家族、世代、生と死を真正面から取り上げており、だんだんと序盤の穏やかさからは想像もつかないような胸糞案件や過酷な展開が訪れる。


常世の国という、何者でもない神々が擬似的な家族や役割をつくりあげる世界は、現代社会を映す風刺的な要素もあり興味深い。

四季をモチーフにした4つの国はどれも独自の文化があり特徴的。

夏の国はとにかく無知と妄信に「あー…」ってなる。こういうの描いてくれるの、嫌いじゃないし、ちゃんと登場人物のバックグラウンドと絡めてあってよかった。


家族のあり方とは。幸せとは。生きる意味とは。

人の数だけ存在する答えを、『たねつみの歌』は現代とファンタジーを織り交ぜながらひとつの形として提示してくれる。

クリアまでの時間や全体的なこと

プレイ時間は、テキストを読み終わったらボイスが途中でも次に進む方式で14時間ほど。

ボイスをじっくり聞いていたらもう数時間かかりそう。

時に長すぎると思うくらい、日常会話や風景描写が詳しく書かれているので、異世界の雰囲気やキャラクターの境遇にどっぷり浸れる。

ちなみに私のお気に入りは陽子。

たねつみの歌 感想画像

ちょっと母性が強すぎる感はあるけど、命の終わりを自覚しているからこその物怖じしないところや、言いたいことを勢いで言っちゃうところがよい。

「陽子ちゃんはデリカシーの在庫を切らせている」って言われてるの笑った。


最初は陽子まわりで「?」となる描写が多かったけれど(病弱なのになんで走れる? とか、体弱いのになんでふたりめ? とか)、そのへんは話を進めればしっかり回収される。

後半の急展開は逆に拍子抜けしたけど、全体を通してはきっちり辻褄が合う構成になっているので満足のいく読後感になっている。

旅が終わったあとのエピローグ、思ったより長かったけど、プロローグと釣り合うようになってるんだよねきっと。

ストーリー感想(ネタバレあり)

以下は、未プレイの方はご注意くださいというより、未プレイだとなにを言っているか分からないであろうネタバレありの感想。

子は加害者という見方

ストーリー全体で印象に残ったことはたくさんあるけど、ひとつ挙げるなら「子は母になる者の自由を奪う暴力的な力がある」という視点。

子は誰かの人生を決定的に変えてしまう加害者であり化け物だという。

子という存在が何者でもなかった人間を親にし、自由を奪う。

夏の国でみすずは、助けを求めるツムギの力におののいた。誰の母でもない自分が、子の存在によっていやおうなく母にされる大きな力にみすずは震える。

ツムギにはみすずを変える力がある。同時に、みすずにも陽子を変える力がある。

その加害性を自覚しても母になるのか? 陽子を母にするのか? とみすずは突きつけられる。

時を超えて同い年の母娘が集まらないとできない、面白い問いかけ。


葛藤しつつも、みすずは母を失った寂しさと母に見つけてもらえた嬉しさを自覚し、子になる者のために、自らの自由を制限し献身することを選ぶ。

自分の体験した嬉しかったこと、与えられた幸せを、次の誰かに与えるために。

あるいは、自分の与えられなかった幸せを、これから産まれる者に与えるために。

秋の国でタヌキの旦那がそうしたように(そういえば、みすずもタヌキって言われてたよね)。


子は母を変える化け物。そして母もまた、子を守るための化け物になる。

冬の国でみすずはツムギを助けるため、力強い化け物になった。化け物になったから、冬の国で「こんなクジラ倒すの無理」「こんな絶壁登るの無理」といった逆境も乗り越える。

唐突に思い出したのは、中学のとき数学の先生が「わたし旦那のためには死ねないけど、子どものためなら死ねる」と話していたこと(肝心の数学の内容はきれいさっぱり)。

ツムギの母であるみすずも、そういうことなのだろう。

16歳なんて、まだまだ自分中心の年齢なのに、未来の娘がいるだけで命をかけて子を守る母親になる。みすず自らその選択をする。

それを一般的には愛と表現するはずなのだけど、家族から幸せを与えられなかったヒルコ目線では子の暴力性という見方になるらしい。


個人的には、子は基本的には親の選択の結果だから、子が罪の意識を感じる必要はまったくないと考えている。

そもそも子の暴力性という概念自体がヒルコの意見なので、ボスが用意した敵のような、主人公がなんらかの形で戦い受け入れ乗り越えなければならない壁的な存在だったように思う。

みすずが手に入れたものは

秋の国のあとに明かされた、実は嘘でしたというみすずの人生は、冒険を終えると神様の意向により本物になったわけだけど。

旅を終えて時が経ち、情報工学を専攻するのも、誠司くんと付き合うのも、女の子を出産するのも、すべて未来で見た自分に追随している。

それは果たしてみすずの本物の人生と呼べるのか。

陽子も同様で、16歳のときに16歳のみすずに会っているから、みすずを産んだのは既定路線。

ではツムギはどうなのか。

陽子やみすずと違って、ツムギだけ16歳の「その後」が一切描かれておらず、未来が確定していない。

みすずが手に入れた本物の人生はみすずのものではなく、ツムギのものと考えることもできる。

自分の体験した嬉しかったこと、与えられた幸せを次の誰かに与える、たねつみのように。

命の継承

「家族っていいものなの」は、ムキになっていた陽子の言葉。

たしかに『たねつみの歌』を見ていると、家族の絆はすばらしいと思うし、感動する。

一方で、子供がいないと生きる意味がないのか、家族がいないと幸せにはなれないのか、つらいこと苦しいことを乗り越えないと人生に意味はないのか、そういった暗い疑問が湧かないでもない。

でもたぶん、作品が言いたいのはそこではない。

自分の命は、家族のつながりが続いてきた結果。命の積み重ねで今がある。

ただ、この先、なにに生きる意味や幸せを見出すかは人それぞれ異なる。

親になるかならないか、家族を持つか持たないか、つらいことに向き合うか逃げるかは選択のひとつでしかない。

それを体現するのがツムギ。みすずの物語によって本当の人生を与えられたツムギ。

『たねつみの歌』というみすずの物語が終わったあとのツムギの未来は、なにも決まっていない。ツムギが決めていくのだ。

言い換えると、読み手の想像と選択に委ねられている。


陽子、みすず、ツムギの役割は「祖母」「母」「娘」「孫」だけではない。

みすずとツムギへとつながる物語の起点を背負ったのが陽子。

娘であり母でありながらどちらでもなく、揺らぎながら陽子とツムギをつなぎ、同時に物語と読者をつないだのがみすず。

そして、物語が終わったあとの自由と想像を背負ったのがツムギなんじゃないかと思う。

別の見方をしてもいい。

陽子は私へと命をつないだ先祖と家族。みすずは時の流れとともに役割を変え生きる私。ツムギは私の知らない未来。

彼女たちの物語が、ひとりひとりの人生を象徴するような壮大な命のリレーにも見えてくる。

物語は人生。終わりがあるもの。

終わりある生を肯定し、姿も形も分からない、見ることもないかもしれない未来を思い浮かべて少しやさしい気持ちになる。

『たねつみの歌』はそんな作品だった。


© Aniplex Inc. All rights reserved.

Next Post Previous Post