【FF5ピクセルリマスター版】「やっぱり名作」約30年ぶりに遊んだ感想

ピクセルリマスター版『ファイナルファンタジーV』の感想です。
FF5は私が最初に遊んだFFシリーズ。
今回30年ぶりくらいにプレイしたにもかかわらず、だいたいの内容を覚えていて、それはFF5のシンプルで分かりやすい世界によるものだろうと思います。
登場人物の個性という点ではほかのFFシリーズに劣るものの、間違いなく名作のひとつです。
途中からネタバレあります。
ピクセルリマスター版についての感想
ピクセルリマスター版では、画面右上にミニマップが表示されたり、フィールド以外ではダッシュできるようになったり、世界地図で各地の宝箱入手状況が確認できたりと、快適に遊べるようになっていました。
(世界地図の宝箱の中には実績とは関係ないものも含まれているのがアレですが)
何といっても中断セーブとオートセーブがありがたい。
FF5はけっこう敵が強く、1ターンめで全体攻撃を2連発されて全滅して顔がひきつる、ということがしばしばあるので、こまめにセーブできるのは本当に尊い。
昔はフィールドとセーブポイントでしかセーブできなかったのが信じられない。
ピクセルリマスター版でちょっと残念だったのは、ジョブ一覧でスクロールしないといけない点。

SFC版ではナイトからすっぴんまでの全ジョブが一画面におさまっていて見やすかったし、すべてのジョブをマスターしたときはそれはそれは壮観な眺めだったのですが…。
あと私、SFC版の魔法剣の演出が好きだったのですけど、なくなっていた。
切りつける前に、魔法に応じたエフェクトがキャラクターに出るやつ。魔法剣ブリザドなら地面から氷が出て、魔法剣サンダーなら雷が落ちて、と。
ピクセルリマスター版では代わりに、切りつけたときに地味なエフェクトと効果音が入っていた。戦闘のスピード感を上げるためなのだろうか。
以下は改めてFF5を遊んでみての感想。
ネタバレあります。
歴代トップクラスのオープニング
FF5のオープニングって、FF史上トップクラスの出来ではなかろうか。
(なお、FFシリーズの全オープニングを見ているわけではないので独断)
雄大なタイクーン城が映し出される幕開け。
世界に何やら異変が起きていて、タイクーン王が飛竜で旅立って、それを心配そうに見送るレナ。

ガラフやファリスも風が止んだことを感じ取り、不穏な空気が漂う。
そして風の神殿にタイクーン王が到着したとき、クリスタルが砕け散る。
シーンの変化にあわせて変わる曲調や、タイクーン王や隕石の動きを追うカメラワークが、まるで映画みたいなオープニングを作り上げている。
風のクリスタルが砕けるまでの緊迫感から、まだ何も知らないバッツへの切り替えも鮮やか。
FFの特徴である映画のようなゲームが本格化したのがFF5だったのかもしれない。
いいのは「ビッグブリッヂの死闘」だけではない
FF5の音楽といえば、ギルガメッシュの存在も相まって「ビッグブリッヂの死闘」が飛び抜けて有名だけど、全体的にいい曲がそろっているのがFF5だと思う。
第二世界、第三世界のワールドマップの曲は、ガラッと変わった世界の中でついついボーッと聞き入ってしまうし、第一世界の飛空艇の曲は疾走感と爽快感がありすぎて延々と空を飛び続けてしまう。
リックスの村の、家族のいない故郷で流れるやさしさと哀愁の入り交じった曲は、バッツにとって故郷が疎遠で、でも大切な場所だということを何となく感じさせる。

ダンジョンの曲も粒ぞろいで、古代図書館のミステリアス感、カタパルトやロンカ遺跡の得体の知れなさ、ピラミッドのエキゾチックさ、ムーアの大森林の神秘性、どれもこれもその場の雰囲気を引き立てる。
無人島にFFのサントラを1つだけ持って行くということになったら、私はたぶんFF5を選ぶだろう…(でもこのあとFF6やったら違うこと言いそう)。
大人になって気づいたガラフのかっこよさ
大人になって遊んだFF5。
ストーリーはだいたい覚えていたけど、「ガラフってこんなにかっこよかったんだ」という新たな気づきがあった。
記憶喪失の元気で陽気なじいさんは、実は第二世界にあるバル城の王様で、かつてエクスデスを第一世界に封印した暁の4戦士のひとりだった、というガラフ。
使命を思い出してからのガラフは最高指導者としての貫禄を遺憾なく発揮。
特に第二世界冒頭のガラフは、バッツたちを助けるため飛竜で単身敵の本拠地に乗り込むという、突っ込みどころ満載ながら尋常ではないかっこよさを見せる。

飛竜で旅立つガラフとそれを見送るクルルの図が、オープニングでのタイクーン王とレナを想起させるのもよい。
そんなガラフのかっこよさは、ムーアの大森林でピークを迎える。
世界を守るために奔走した戦士は、孫を守るためにエクスデスの攻撃を受け、HP0になってもひとりでエクスデスと戦い続ける。

ガラフは命を賭してエクスデスを退け、世界の崩壊を少しだけ遅らせ、仲間たちに未来を託して息を引き取った。
ガラフの力の源は憎しみでも怒りでもないというのが、自分の復讐のために生きて散っていったFF4のテラとは真逆。
死に際にガラフは仲間に「エクスデスを倒せ」と告げ、そしてその仲間たちはガラフの果たせなかった使命を成し遂げる。
いいか悪いかは別として、老齢キャラクターにこれ以上の幕引きはないだろうなというくらいの圧倒的な存在感。
レナが飛竜の舌を切ろうとして…
FF5で一番好きなシーンは、フェニックスの塔での回想かもしれない。
母は飛竜の舌を飲まないともう助からない、と聞いたレナがナイフを持って飛竜のもとへ向かう。

使用人のジェニカに、その飛竜が死ねば飛竜は絶滅する、お母様もかわいがっていた子だけど、本当に舌を切るのかと問われたレナ。
「いいえ」を選ぶとジェニカになぐさめられるだけだが、ここで「それでも私は舌を切る!」と言わんばかりに「はい」を選ぶと、駆けつけたタイクーン王にめちゃくちゃ怒られる。

母親のために飛竜の舌を切ろうとして、亡きタイクーン王に殴られる(たぶんビンタ)というこのシーン。
いつも上品で動物をいたわる優しいレナの、母親か飛竜かの苦渋の決断、そして母親を失うことへの深い悲しみが短い時間で描かれて、すごく印象に残った。
それにしても、レナもクルルも自分のところの飛竜を「飛竜!」と呼ぶのだけど、この世界では飛竜に名前をつけないのだろうか。この点は違和感しかない。
わかりやすさこそがFF5最大の魅力
FF5は全体として登場人物に大きな葛藤や成長がない。
前半こそガラフが自分は何者なのかと苦悩したり、ファリスが出自を隠していたりといったことがあったけど、エクスデスを倒すという目標ができてからは世界を救うために一直線。
バッツもレナもファリスもクルルも、みんな素直でまっすぐ。
多くの犠牲を見て、これ以上命が失われるのを見たくないと、誰ひとり世界を守ることに迷いがない。

大切な人を目の前で失うという過酷な体験をしても、自暴自棄になったり絶望したりすることはない。
(まったくないわけではないけど立ち直るのが早い。きっと尺の都合)
若者が多いのにこれといった欠点が出てこず、仲間どうしでもめることも意見が食い違うこともない。
バッツが主人公なのに影が薄いと言われる原因のひとつは、悩んだり自己主張したりしないからなのだろう。
個性の代償がすぐれたジョブシステムとも言えるし。
そういったことから、FF5はちょっとドラマとしては物足りないところがある。
ストーリーはよくまとまっているから、いいシーンはたくさんあるのだけれども。
一方で、見ていてストレスがないのは確か。
複雑な人間関係や複雑な心の変化や複雑な生い立ちがないし、ストーリーも「クリスタルを守ろうとしていたら無の力をよみがえらせようとしているエクスデスを倒すことになった」というシンプルなもの。
私が初めてFF5を遊んだのは小学校低学年のときだったけど、何が起きているか何となく理解できて、だいたいの流れは大人になってからも覚えていた。
子供でも分かる明快さは、FF5のもっとも優れた点ではないかと思う。
1番にはならないけど、常に2~3位を争う。私の中でFF5はそんなゲーム。
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